マスコミ受験対策講座

【 合格体験記 】
春田 さん

 

春田 貴博 さん  Takahiro Haruta 

福岡教育大学 特別支援専攻科1年
西日本新聞社内定

●きっかけは…
『かっこいい仕事がしたい!!!!!』
きっかけはそれでした。
今でも実感しているのですが、きっかけは何でもいいと思います。ただ、その状態“あこがれ”から“本気”に変わる瞬間を大切にするべきだと私は思います。 
偶然にも、私の知人が福岡の放送局で「テレビ営業」の仕事をしていました。直接連絡を取り、仕事帰りを待って話を伺いに行きました。この時、漠然としたイメージで
『自分自身のコミュニケーション能力を活かした営業がしたい』
と思っていました。
でも「テレビの営業って何してんだ?」(今思うと浅はかですよね(笑))という軽い気持ちで話を伺っていました。しかし、今思うとその方と出会い、考え方が変わるきっかけになったかもしれません。
【面白い番組を作るためには制作費が必要。視聴者を集めたイベントで大赤字。ドームを借りるだけで○万円。
某人気野球選手をCMに起用して○万円…】
などなど、私はその方の話に釘付けとなりました。
そして、最後にその方の一言が私の胸に突き刺さりました。
『オレ達は、“夢”を売る仕事をしてるんだよ。』
私はこの瞬間決めました。“憧れ”から“本気”に変わるきっかけとなったのです。

●とにかくテレビ・新聞・雑誌を見まくった日々
「マスコミを目指すなら新聞を読みなさい。」様々な業界の人に出会ったが、みな口を揃えてそう言いました。…「なら読もう!!」私は単純なのです。
多い日には、日経新聞、読売新聞、毎日新聞、西日本新聞の4紙を買ったことがあります。読めば読むほど、知識が頭に蓄積されていくのを実感できました。(後に新聞とは運命の赤い糸で結ばれることになります。)挙句の果てには、女性に大人気のCanCamまで購読するようになりました。CanCamを買う時の、コンビニ店員の視線は未だに痛いが、消費の中心である女性の動向を把握するために我慢しています。
その他、テレビは本当に見まくりました。お笑い番組、NHKドキュメンタリー、九州各局が自社で作る番組、ジャンルや自身の嗜好を無視してとにかく見ました。そして気になった番組はビデオに録画し、何度も見ました。「オレならこう作るな〜」「ここが少しつまらんな〜」などと気付いた点はノートにメモしておきました。

●いざ出陣!!!
年が明けた2月。東京のキー局を中心に面接がスタートし始めました。万全の準備が私に自信を持たせていました。しかし、現実はかなり厳しいものでした。面接会場に行くと、「何人いるんだよ!?」と驚くほどの学生が面接を待っていました。その空気に呑まれていたのかもしれません。キー局は2次試験に進んだ局以外はすべて1次敗退。私の自信は脆くも崩れかけました。この時、私を支えていたのは間違いなく努力してきたという過去の事実でした。「あれだけ頑張って準備してきたのだから、きっとやれる!」そう信じ続けていました。
ようやく結果が出始めたのは3月に入ってからです。広島の放送局で1次、2次ととんとん拍子で面接をクリアしていきました。そして、同時進行のテレビ大阪も「筆記試験700名→1次面接100名→2次面接30名」という形で面接を勝ち抜いて行きました。そして、テレビ大阪では2000名近い数から最終面接の10名に残ることができました。少しずつ努力の成果が結果という形で見え始めました。
そして、運命の4月13日。テレビ大阪最終面接。朝5時に目が覚めたことからも感じれるように、少し気負い過ぎていたのかもしません。私は面接会場に入る前に必ず行く所があります。それは、仲間とたくさん議論し合った場所“マクドナルド”です。そこで好きな音楽を2曲聴き、テンションを上げて面接会場へと入るのです。
「トントン」と扉を叩き、いつも以上に大きな声で「失礼します!!」と入りました。そこには、70歳ぐらいの役員の方々が総勢11名。ドーンと座っていました。
私は物怖じすることなく、面接に望んだつもりでしたが、結果は敗退。敗退が分かった瞬間、人生で初めて声を出して泣いたことを昨日のことのように覚えています。
落ち込んでいる暇はありません。その3日後、広島の放送局の最終面接が待っていました。この局でも最終面接へと足を運んだ学生は10名程度。つまり、半分以上の学生はここで篩(ふる)いにかけられるということです。面接が終わって少し嫌な予感はしていました。口では説明できないが、面接を数多く受けるとカンというものが鋭くなるものです。結果はここでも敗退。さすがに、連続最終面接落ちは人間不信にも陥りかけました。
「じゃー、オレを最終まで残すなよ!!」
正直そんな心境でした。

●変な“縁”を感じる瞬間
放送局か新聞社で営業をしたいと考えていた私は、西日本新聞の筆記・面接試験も受けていました。筆記・面接試験の結果はすべて電話連絡の西日本新聞は、決められた時間に電話がくるという合否発表の方法でした。
私は不思議と面接が終わった後、そして決められた連絡時間中は、心を穏やかにして待つことができました。過信かもしれませんが、電話はくるものだと思っていました。けっして甘い面接ではなかったのですが、自分が蓄積してきた知識や経験を思うまま話すことが、その“過信”につながりました。
4月27日は朝8時30分に本社集合で、西日本新聞の最終試験がありました。午前中は健康診断が行われ、その他の受験生とも会話する時間が多くありました。話した全員が「ここまできたら、愛着感じるよね。内定欲しいね。」と言っていました。
そして、午後からはいよいよ最終の役員面接です。面接は2〜3人一組で行われ、私は4組目でした。一組、二組終わり、少しずつ順番が近づいてきました。私はかつてないほど集中していたことを覚えています。周囲が「サーッ」と静かになっているような感じがしました。あの不思議な空気を感じたいと思っても、二度と味わえないかもしれません。
私の組は、女性2人と私・男性が1人という組合せ。ズラーっと並んだ役員の数は11名。面接が始まり、全員簡単な自己紹介をしました。そして、役員から向かって左の女性へと質問が飛び交いました。いよいよ私の番です。
「君は販売局が第3志望だが、販売には興味がないのかね?」
私は咄嗟に、
「エントリーシートの内容変えていいですか?第1が広告局、第2は販売局でお願いします。」
その瞬間、面接会場の雰囲気がガラっと変わりました。役員全員大爆笑(笑)(←なぜあんなに爆笑だったのか、未だに謎ですが…)
すると、社長の横に座っていらっしゃった副社長が一言
「君、面白いこと言うね〜。」
そう言われた私は満面の笑みを見せました。
これですべての面接が終了しました。

●ついに、ゴール!!
西日本新聞、最終面接の結果はその日の午後7時までに連絡すると言われました。面接が終わったのが午後2時ぐらいだったので、約5時間。さすがに緊張して電話を待っていました。
そして、午後6時38分、その電話鳴りました。
「西日本新聞、人事部です。ぜひ一緒に働きたいと思っています。」
私は即答でした。
「よろしくお願いします!!!」
この瞬間私のマスコミ就職活動は終わりを告げました。1ルームマンションの狭い部屋で思いっきり大きな声で「ヨッシャー!!!!」と叫びました。

●マスコミ就職活動を振り返って
きっかけは単なる“憧れ”でした。しかし、情報の中心にはいつもテレビ・新聞がありました。すべての中心にマスコミの存在を感じてきました。テレビを見て笑い、泣く、そして新聞を読み、社会問題について深く考えさせられる。いつしか、こんな仕事が実現できたら人生楽しいだろうなと強く思うようになりました。徐々に、“憧れ”から“本気”に変わっていったと思います。
ここに書いた以外にもたくさんの放送局を受験してきました。しかし、その夢を叶えることはできませんでした。何千、何百人の中からわずか数名という狭き採用枠。その業界を中心に就職活動することは大きな覚悟が必要でした。だからこそ内定を目指す価値があると思います。
結果的に新聞社から内定を獲得できたことは、就職活動のみならず、人生においても大きな自信になりました。高い目標を掲げ、その目標を達成するためには「今何をすべきか?」を考える日々でした。そして、その目標を達成するために様々な経験を積んできました。それもすべて、内定という目標があったからこそできたことだと思います。
正直に言うと、「もう一度同じ就職活動をしろ」といわれても嫌です(笑)それほど動き回り、苦しんできました。両親、友人にもたくさん迷惑をかけてきました。だからこそ、今は感謝の気持ちや喜びでいっぱいです。
生きるうえで大切にしている言葉があります。それは、
『努力は“実らない”。でも、人間努力をしないと“報われない”』
です。
就職活動で自分の思いばかりではどうにもならない場面に多く遭遇しました。しかし、必ずどこかの会社と“縁”があると信じて活動しました。その“縁”を引くつけるためには“運”が必要なのです。いつか報われるその“運”を引きつけるためには、絶え間ない不断の努力が一番重要です。
自分の進む道を信じ、努力を続けてください。